本田商會が今日あるのも、ご先祖様が「善」を積んできたお蔭だと確信しています。この精神をを受け継ぎ、可能な限り積善経営に邁進していく覚悟です。
世の中に必要なものは栄えるという信念のもと積極的な経営を本田文昭(現会長)は考えており、そこから本田商會の諫早事業所、佐世保支店の設立という積善経営で展開してます。
100年ということにはさほど関心を持っていなかったのですが、ある人に「物売りとしての1世紀は凄い」と言われ、改めて歴史の重さを痛感しました。企業の平均寿命は30年と言われる中で、継続・発展させていくことは容易なものではありません。ただ商売の基本はどのような時代においても「信用と信頼」です。
明治37年(1904)、佐世保。東アジアの玄関口である長崎の中でも、とりわけ海軍鎮守府として発展を続ける活気に満ちたこの都市に、一人の男が降り立ちました。
本田正冶、当時42歳。
島原で塩とたばこの専売所を営む本田嘉久太の長男である正冶は、佐世保市島瀬町に、船具商「本田商會」を立ち上げます。もともと「ものづくり」を得意とした正冶は、既成の船具の販売だけに飽き足らず、日本で初めてのカーバイトを使ったトーチランプを開発。これが大変な評判となっていきます。
大正3年(1914)、正冶は長崎市にも長崎支店を開設。妹のフクとその夫である重次郎の夫婦に長崎支店をまかせることにします。これが長崎における本田商會の操業となります。当時長崎港は長崎漁港を中心に持ち、漁業基地としても降盛を極めていました。
本田重次郎、フク。
正冶にとって妹夫婦であるこの2人が長崎支店をまかされたのは、大正3年(1914)。当時、江戸町や元船町など周辺には数多くの船具店がありましたが、カーバイトのトーチランプは本田商會だけのオリジナル。もちろん長崎でも爆発的に売れていました。そこで長崎支店は、船具全般というより、次第にカーバイトに特化した形で発展していきます。
昭和11年(1936)、初代本田正冶の死去にともない、一人息子の本田賢蔵が社長に就任します。しかし昭和18年(1943)、国策により一業種一社と決められます。多くの会社が職種ごとに統合され、長崎のいくつかの船具商も合同企業「長崎船用品株式会社」となり、賢蔵はその発起人の一人となりました。ここで、残念ながら本田商會の社名も佐世保では消えることになるのです。
しかし、長崎支店に関しては、船具からカーバイトの販売に特化していたため、切り離しに成功。同じ年、重次郎はカーバイト販売部門を分離独立させた「本田商会」を新たに立ち上げることになったのです。現在の本田商會株式会社の創立を、長崎支店が操業を始めた大正3年(1914)に置いているのは、以上のようないきさつがありました。
左/ 正冶(中央)が存命のころの佐世保本店での記念写真。
右/ 重次郎の妻フクと子どもたち。左から八重子、正子、英夫。
長崎市江戸町に構えた重次郎夫妻の本田商会。その業績も順調に伸び、長崎県カーバイト配給所の認可を受けて切符制度での営業も行います。
夫妻の4人の子どものうち、長男の英夫は成人後、家業を手伝いつつ、コトと結婚し、娘をもうけます。町内の顔役的な存在だった重次郎は、初孫として生まれた英夫の長女・保子を「本田のちーよ、本田のちーよ」と呼んで可愛がっていました。
しかし世の中は、少しずつ、坂を転がるように太平洋戦争へと向かっていきました。英夫と次男の重夫は、相次いで戦地へ出兵していったのです。やがて江戸町一帯も国防計画のための強制疎開対象となり、本田商会は駒場町(現在の松山陸上競技場のあたり)への移転を余儀なくされました。この移転がなければ、運命は違ったものになっていたかもしれません。
昭和20年(1945)8月9日、長崎に原爆が投下。爆心地付近の駒場町一帯は一瞬のうちに廃墟と化し、重次郎とフク、そして本田商会の従業員も全員亡くなりました。
本田英夫が戦地から戻ってきて目にしたのは、変わり果てた故郷の姿でした。両親は亡くなり、次男の重夫も戦死。駒場町にあった本田商会は壊滅状態でした。
しかし彼はこの会社を再び復興することを決意します。長女保子を連れ、佐賀県有田の実家に疎開していた妻・コトも戻っていました。保子に加え、終戦の年には祥知子も生まれていました。原爆落下時は、コトが祥知子を妊娠中だったため、そろって県外に疎開をしていたことで運よく被爆を免れたのです。
本田英夫・コト夫妻。
本田英夫(88歳)米寿・コト(88歳)傘寿。
戦後の混乱の中、長崎市中心部で事業所を転々としていた本田商会ですが、昭和30年代になると街全体も少しずつ落ち着きを取り戻し、やがて大黒町に事業所を構えます。
英夫が再建した本田商会は、カーバイトの卸業・小売業だけでなく、もう一つ大きな戦略がありました。
発電機が普及すれば、漁業におけるカーバイトの需要は遅かれ早かれ伸び悩むでしょう。そこで、カーバイトに代わる様々な事業を積極的に展開していったのです。昭和23年(1949)事業所が大黒町に落ち着いたのとほぼ同時に高圧ガスや溶接材料の販売を開始しました。また、昭和30年(1955)には地質調査、ボーリング事業を始めます。昭和34年(1959)はプロパンガス、産業機械、工具、副資材などを本田商会の取扱品目に追加しています。
現在における、取扱業務の多彩さ、各方面に目配りしながら展開していく手法は、すでにこの時代に生まれ、確立されていったものといえます。
NHKの前は崖のようになっており、そこに何軒かの商業ビルが見えます。このうち白い2階建のビルが当時の本田商会です。
大黒町の事業所の前で遊ぶ本田家の姉妹と親戚の子どもたち。
英夫とコト夫妻と、5人姉妹。後列右から祥知子、保子、いくこ、栄子、前列の尚子。
昭和49年(1974)に本田文昭(現・会長)が入社したとき、社員は6名でした。文昭は語ります。
「先代の社長がいつも語っていたのが、ドライバー一本でも、お客様の必要なものは何でも引き受けて、調達しなさい。御用聞きでもいい、商売にならなくてもいい、それが本田商会の信用につながっていくのだから、という言葉です。本当に実直で、顧客の信頼を、何より一番大切にする方でした」。
祥知子(現・相談役)もずっと会社で働きながら、父・英夫の仕事ぶりを間近に見てきました。
「父は、どんなにお金を積まれて『うちに先に持ってきて』と言われても、お金に目を眩ませ届ける順番を替えることはなかったですね。悪く言えば融通がきかない商売下手の正直者ですよ。でもその信用第一の姿勢を好んでくださるお客様が多かったおかげで、何度か迎えた危機も乗り越えてきました。みなさん助けてくださいました」。
昭和45年(1970)、英夫の次女・祥知子と本田文昭が結婚。しばらくは東京に居を構えていた二人ですが、昭和49年(1974)には長崎に戻り、文昭は本田商会に勤務。次第に中心的な存在になっていきます。
そして平成2年(1990)、先代の引退と同時に、文昭が代表取締役になりました。
「私たちが結婚式を挙げた日の朝、母が言うのですよ。『天井にウドンゲが咲いているよ、これは吉兆だわ』と。この花が咲くのは大変めずらしいのだそうですね」。
英夫には娘ばかりが5人。本田商会を次世代に継いでいくには、誰かがお婿さんを迎えなければなりませんでした。四女の栄子は語ります。
「でも案外、その方がよかったんじゃないかと思います。もし私たちの兄弟で男性がいて、その人が不出来な人だったら、この会社はとっくにつぶれていますよ。いい方が外から来て、そしてしっかり会社を継いでくださったから、今があるのではないでしょうか。私たちはよくそんな話をしています」。
本田文昭・祥知子夫妻
中村法道 長崎県知事
田上富久 長崎市長
吉沢俊介 親和銀行頭取
祥知子常務も微笑みがこぼれます。
社長のお礼の挨拶では、先代社長の本田英夫をずっと支えてきたコト夫人が登壇しました。